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ジョージ・A・ロメロ/ゾンビの世界

 



ジョージ・A・ロメロ/ゾンビの世界
ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド Chapter 5

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 “最小から最大へ”、ヒッチコックとロメロ

 ここまでその独自性を指摘してきたが、私は『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』とある有名な映画との類似性を強く感じてもいる。
 その映画とはアルフレッド・ヒッチコック監督の傑作スリラー『鳥』(63)である。どちらもアメリカの片田舎を舞台に、スーパーナチュラルな恐怖が突如として人々に襲いかかるという異常事態を描いた映画だ。
 スーパーナチュラルといっても、襲いくる存在は人にとってあまりに身近な「鳥」や「死人」である(フランスの映画監督フランソワ・トリュフォーは、ヒッチコックとのインタビューをもとに記した「映画術 ヒッチコック/トリュフォー」のなかで映画『鳥』について語っている。その中でトリュフォーは、この映画のモンスターである「鳥」は、ヒッチコック映画の原理である“最小から最大へ”を視覚的にも哲学的にも表現する格好の材料であると述べている。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』冒頭の墓場のシーンでそのヒッチコック映画の原理が継承されていることについてはロメロ自身も言及している)。そういった身近な存在が恐怖の対象になり、それがなんの説明もないままにモンスターと化して突然人々に襲い掛かってくるところや、この手のホラー映画やパニック映画の多くにみられる科学者や軍人や政治家といったエリートを登場させて事態の説明や対応策をとらせるシーンがないこと、登場人物のほとんどが一般人で、彼らが異常事態を把握しきれないままにそれに巻き込まれ怯え戦いを強いられるという設定、そして片田舎という限定された地域でのパニックを通して地球的規模で起こっているのであろう黙示録的な終末世界を暗示させる作風、といったように両作品はきわめて似た構造を持っているのだ(ただその作品としての肌触りは決定的に違うが)。
 「鳥」も「死人」も人間にとって身近な存在といったが、身近な存在であるがゆえに人々が普段生活している日常空間が恐怖の舞台にかわる。ヒッチコックもロメロもそういう日常空間を利用し、そこに恐怖の対象を配置して、シミュレーション感覚でスリルとサスペンスをたくみに演出してみせる(一軒屋に籠城した登場人物たちの攻防がクライマックスであるところも似ている)。
 両作品の類似は私だけの指摘ではない。宇宙人による地球侵略の恐怖を片田舎に暮らす家族の視点からのみ描いたM・ナイト・シャマラン監督作品の『サイン』(2002)は、参考にした作品として『鳥』と、もう一つ『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を上げている。
 両作品の類似性のみならず、ロメロの映画監督としてのスタイルがヒッチコックと似ているとの指摘は以前から成されてきたことである。それについてはロメロ自身も触れていて、本人はヒッチコックよりもオーソン・ウェルズやハワード・ホークスなどを意識し影響を受けたと語っている(大学入学前にロメロはヒッチコックの『北北西に進路を取れ』(59)の撮影現場でアルバイトをしていて、その際にハリウッド的映画製作やヒッチコック本人に対しても幻滅したという話は有名だ。ロメロがヒッチコックとの類似を嫌いハリウッドから距離を置くのもこの時の経験が影響しているのかもしれない)。
 ロメロが『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を製作する際に、直接『鳥』を意識したかどうかはともかく、映画にスリルとサスペンスを生み出すテクニックを追及し続けたヒッチコックの演出方法はその手の映画を撮るすべての者に影響を及ぼしているとも言えるわけで、そこから自由な映画人を探すことのほうが難しい。
 ロメロとヒッチコックとの類似をとくに『鳥』とのそれで指摘するうえで重要なのは、その演出テクニックよりも、映画の中で描かれた状況設定の部分ではなかろうか。
 『鳥』という映画は恐ろしい。その恐ろしさは直接観る者を怖がらせたり驚かせたりするヒッチコック一流の演出テクニックの力によるのはもちろんのことだが、それとともに「鳥」という、時には平和の象徴のようにいわれもする身近で人畜無害なはずの存在が、理由も判然としないまま突如として人々に襲い掛かり、原因の解明らしい解明もなされず、事態の解決らしい解決もなされないままに物語が終結してしまうという不条理な状況設定からも生じている。
 それが言い知れぬ恐怖を生じさせ、深く「何か」を訴えかけ、観る者に様々な解釈を可能にさせているのである。

 「生ける死者」が導く哲学性

 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』における恐怖の対象は「鳥」ではなく「生ける死者」であるわけだが、私はそのことによって表面的な映画としてのスリルやサスペンスとは別に、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は『鳥』以上に恐ろしい作品となり、観る者により深く「何か」を訴えかけてくる作品となっていると考える。
 ロメロのゾンビ映画を考察する上で「生ける死者」の存在は当然避けて通ることはできない。これは『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に限らず、ロメロの「リビング・デッド」シリーズ全体についての考察ということになってくるだろうが、まずは「生ける死者」を分析するうえで、人にとってそもそも「死」とは何なのかという側面から考えてみたい。
 古来より人にとっての最大の関心事は「死」であり、神話や宗教に始まり哲学にいたるまでその中心の命題には必ず「死」が存在してきた。人は死への関心と恐怖から、死後の世界に対する解釈を求め、神話の中で死後の世界を語り、死の恐怖からの救済を提示する宗教を生み出した。だから神話や宗教にあって、死と死後の世界は常に主要なテーマであり続け、死とそこからの復活についてもおりにつれ触れられてきたのだった。ゾンビのキャラクターは、宗教的な死と死後の世界の観点からみて、死後も人に安息がもたらされないかもしれないということを暗示させて人の潜在的恐怖を呼び覚ますのだ。
 またギリシャ神話や古事記などにもみられるように、死後の世界から舞い戻ることは容易なことではなく、舞い戻れたとしても何がしかの不浄を背負ってしまう。
 ロメロのゾンビ映画における「生ける死者」は、魂を喪失し人の肉を求めて彷徨い歩く醜いモンスターと化してあの世から舞い戻ってくる。
 このモダン・ゾンビ最大の特徴である人肉食だが、人の姿をしたゾンビが人間の肉を食らう様は、傍目にはカニバリズムを行っているようにしか見えない。
 カニバリズムについては、いわゆる未開と呼ばれてきた地域や、大規模な飢饉のおり、または倒錯行動の一つとして太古よりその事例には事欠かないが、人類は一応それをタブーとしてきた。
 なぜ人はカニバリズムをタブーとしたかについては諸説あるが、人が人を食らわないことで、人の最低限の尊厳を担保させ、獲物があればとにかく食らう(と人類が一方的に感じてきた)動物から、人間をより高次の存在として分け隔てさせてきたとはいえるだろう。人肉を食するゾンビからは、人間から尊厳が奪われ、人が人でなくなり動物化してしまったような醜さが感じ取られるのだ。
 また魂を失うということは、自分が自分でなくなってしまうということであり自己の喪失を意味するが、カニバリズムとともに人を人足らしめている要素を人から奪ってしまうという点では、同じ恐怖とおぞましさがここにはあるといえるだろう。
 魂を喪失し、人の肉を食らい(自分の家族や友人を食べてしまうかもしれない!)、肉体が完全に腐ってしまうまで死後も地上を徘徊させ続けられるというイメージには身の毛もよだつものがある。
 これは神が人に与えし神罰なのか。『ゾンビ』のロジャーじゃないが、「やつらにはなりたくない」という気持ちにもなってくる。
 感情や知能を持つことによって文明やら社会を築き上げた人類、それによって奢り昂ぶった人類からその感情と知能を奪い取り、畜生以下の存在として死から蘇らせる。ここには知恵の実を食して神の怒りを買ったアダムとイブの物語に始まり、聖書に描かれた「ノアの箱舟」や「バベルの塔」「ソドムとゴモラ」といった物語にみられる、宗教的な原罪や神罰の気配を感じ取ることもできるだろう。
 死者が地上に蘇ってくるということでは、世界の終わりに際して生者も死者も一律に神の裁きを受けることになる「最後の審判」も想起させる。蘇った死者が地上を徘徊するという光景は、地獄の入り口である煉獄か、そのものずばりこの世に現れた地獄であるともいえるだろう。
 ピーターは言った、「地獄が満員になると死者が地上を歩き始める」と。
 原罪や神罰といってもキリスト教的な解釈だけを意味するものではない。たとえばそれは、死後、欲深き者がえんえんと子供や死肉をむさぼり食わされる六道輪廻の餓鬼道に突き落とされるという仏教的なイメージにも重なるのだ。
 生の対極にありながら、誰しも必ず体験することとなる「死」。「生ける死者」という存在は、そういう対極に位置しながら常に身近な存在として我々を怯えさせる「死」が、目に見える形となって我々の前に具現化されたと捉えることもできるだろう。そのうえで「生ける死者」を、魂を喪失し人の肉を食らうという、人から人足らしめているものを奪い取った畜生のような存在とすることによって、それは人間存在の究極のアンチテーゼというべきものにもなり得ているのである。
 そしてそのような人の姿かたちをしながら人間存在の対極に位置する「生ける死者」は、人類にとって鏡のような存在ともなり、ロメロのゾンビ映画では、そこに人間の醜さや愚かしさが映し出されることにもなる。
 もとは人間であったことや、生前の習慣の名残りを持ち合わせていることによって、人間の居住する空間のいたるところにゾンビは存在する。それによって人間の暮らすかつての日常空間は、太古の昔、動物と人間が食うか食われるか、殺るか殺られるかの死闘を繰り広げていた「戦いの原野」と化す。食うか食われるか、殺るか殺られるかというのは最も原始的な生存本能に基づく戦いであるわけで、だからかロメロのゾンビ映画を観ていると、普段は眠っている人間の闘争本能を、ちくちく刺激されもする。
 だが、そうやって生ける死者と死闘を繰り広げている最中にあっても、人類は人間同士で諍い争うことをやめようとしない。ゾンビとの戦いが原始的な「動物的死闘」であるのに対して、映画の中で描かれる欲望やエゴによる人間同士の争いは、動物にはみられない文明的な「人間的闘争」である。
 ここでは、「生ける死者」という鏡の中に、人類の本質が映し出され、その対比において、むしろお互い同士は傷つけあわず、ある意味秩序だってさえいるゾンビのほうが、まだしもましな存在ではないのかと感じさせられさえもする。
 ロメロの「リビング・デッド」シリーズのラストは、必ず人間同士が醜い争いを繰り広げているところへ、人間との境界線を破ったゾンビが大挙して襲撃してくるというお約束のシークエンスで終わる。
 『ゾンビ』や『死霊のえじき』のクライマックスでは、特殊メイクアップ技術の進歩もあって、人間たちは凄まじい人体破損のすえにゾンビに貪り食われるシーンが映し出されていく。そこでは人間がゾンビにめちゃくちゃに蹂躙され尽くせば尽くすほど、人間の愚かしさや浅ましさがよりいっそう際立つこととなり、映画の中で執拗に描かれてきた暴力の果てに、暴力そのものに対する虚しさすら感じとらせることにもなる。
 ロメロの「リビング・デッド」三部作は残酷描写と暴力描写に彩られた映画であるがその過激な描写には意味があり、ロメロのゾンビ映画における「映画内ロジック」によって必然的に導かれてくるものが、映画ラストの壮絶なクライマックスシーンであると私は考える。

 死の世界の住人としてのゾンビ

 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』において、当初監督のロメロには自分の映画に登場するモンスターがゾンビであるとの明確な意識はなかった。この映画がもともとはリチャード・マシスンの小説『アイ・アム・レジェンド』にインスパイアされたものであることはロメロも認めているが、モンスターはグールと呼ばれ、ロメロ自身には「ゾンビ映画」を作っているつもりはなかったようなのだ。
 しかしそこに登場する感情や意思を喪失し緩慢な動きをする蘇った死者たちの姿は、従来のヴードゥ系ゾンビのキャラクター性を間違いなく継承するもので、ロメロが望むか望むまいかに関係なく『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は誰が見てもゾンビ映画にカテゴライズされるべき性質の作品だった。ただロメロはそこに従来のゾンビ像を引き継ぎつつも、新たなキャラクター性を加えたのだった。
 ロメロが新たに付け加えたゾンビの性質は人肉食と感染を介しての増殖だった。
 そもそもモンスターとは人間が抱える様々な「恐怖」がイマジネーションを介して具現化した存在である。なかでも人間の最たる恐怖は「死」であり、そういう意味ではゾンビは前述したように「死」が目に見える形で我々の前に具現化したモンスターである。同様に「食べられる」というのも生物の抱える根源的な恐怖の一つである。人肉食という性質が加えられたゾンビはそのことによって人間が抱える最もプリミティブな恐怖が投影されたモンスターというべき存在となったのだ。
 その上でロメロの創造したゾンビは感染を介して増殖する。
 たとえばドラキュラ(吸血鬼)などもゾンビと同じく「死の世界」の住人であり、共にモンスターの中でも正統派に属するものであるといえるだろう。けれどもドラキュラが圧倒的な力を持ち自ら闇の眷族を生み出すカリスマ的存在であるのに比べて、ロメロ以前のヴードゥ・ゾンビは奴隷であり碌な能力もない受身の怪物であった。そのためヴードゥ・ゾンビがホラー映画の主役をはることも少なく下っ端のやられ役を担わされることも多かった。
 しかしロメロの映画に登場するゾンビは人肉食と感染を介しての増殖という性質を有することによって、自ら「生」の世界に「死」の勢力を侵食させていく恐るべきモンスターとなったのだ。ここでは文字通り奴隷としての存在であったゾンビに階級闘争が起こり、ゾンビは脇役からホラー映画の主役を担うモンスターへと昇格したのである。
 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』をはじめロメロの「リビング・デッド」シリーズの恐ろしさの一つの要因には、そのような「生」の世界が「死」の勢力に侵食されていくことへの脅威も存在するのである。『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』における、暗闇の中から一軒屋に向って集う「生ける死者」の群れは、「死」の勢力の「生」の世界への進軍なのだ。
 さて、ロメロはマチスンの『T AM LEGEND』をもとに「アヌビス」三部作の構想を練ったわけだが、もともと「死の世界」の住人ということで共通項を持っていた吸血鬼とゾンビは、ロメロの映画を介してより近い存在となったといえるだろう。噛まれたものが感染しモンスターとなってしまうということでは、モダン・ゾンビも吸血鬼物の亜種と捉えても差し支えないだろう。
 だがドラキュラなどが人間に災いをもたらす素性のはっきりした明確な「悪」や「敵」であるのに比べて、モダン・ゾンビも人間に危害を与える「敵」であることは間違いないものの、その正体は全く不明瞭である。そのうえ「敵」といっても「リビング・デッド」シリーズにおけるゾンビを単純な善悪ニ元論の枠内に収めることもできない。
 ゾンビは人類にとっての鏡であると述べたが、どれだけ否定しようとも鏡の中に映るものは自分自身の姿である。
 「悪」や「敵」は人間の外部にはなく、むしろ人間の内部にこそ存在するのではないか?
 「現代」は人間の外部に単純明快な「悪」や「敵」を想定できない時代であり、単純な善悪二元論で割り切られていた過去の歴史や既存の価値が、そのような鋭角な問いかけに常に晒されている時代であるともいえるだろう。
 またドラキュラ(吸血鬼)などがカリスマ的個性を持った「貴族的」存在であり前近代を引きずったモンスターであると規定できるのに対して、圧倒的な増殖力を持ちながらも「個性」がないのが個性であるモダン・ゾンビは「大衆的」な現代的モンスターであるという区分けをすることも可能だろう。この「大衆」としてのゾンビの姿にロメロいうところのゾンビは労働者、既存の社会をひっくり返す変革の側の存在という視点や、『ゾンビ』で描かれたように無批判、没個性の顔のない消費者といった視点もみえてくるのである。
 このようにみてくると、このモダン・ゾンビという名も言い得て妙で、ロメロの「リビング・デッド」シリーズにおける「生ける死者」は、まさに「現代」という時代を象徴したモンスターであるといえるのだ。
 ユングを持ち出すまでもないが、遡ればその原点が神話の世界にまで行き着くであろうホラーというジャンルは、そもそも映画登場の遥か以前から、その時代その時代の人々が抱いていた様々な不安や恐怖が象徴的に表現されてきたものであった。そしておとぎ話や寓話がそうであるように恐ろしい話や奇抜な話を通して、世の中を風刺したり、人々にモラルを指し示すという機能も担ってきた。
 だが大胆に言えば『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』以前のホラー映画は、映画登場以前の神話やおとぎ話や小説などから物語を借りていて、その表現方法もまだまだ進化の途上であり、現代に生きる我々の真の不安や恐怖を映し出す「現代の寓話」足りえていなかった。
 それに対して、ホラー映画のみならず従来の娯楽映画の表現方法を革新させ、60年代後半という特異な時代の影響下その作品に「現実感」を取り込むことに成功し、「現代的」モンスターである生ける死者“ゾンビ”というキャラクターを登場させることによって、 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、今を生きる我々の真の不安や恐怖を映し出した「現代の寓話」足りえているのである。

 不条理劇としての「リビング・デッド」シリーズ

 さて、私は先に「死者の復活」を神の罰という視点から述べたが、作り手としてそれを十分意識していたとしても、ロメロは少なくとも「リビング・デッド」シリーズの映画本編において、劇中人物の言葉を借りて暗示させる程度で、直接的に死者の復活と宗教的意味合いを結びつけて語るようなことはしていない。その点ではこれも一つの解釈ということになる。
 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の劇中でそれとなく触れられてはいるものの(金星探査衛星の爆発による放射能漏れの影響)、ロメロは「リビング・デッド」三部作において死者が蘇るという事態の原因やそれによってもたらされる意味に直接的な答えを提示しない。そのことが観る側に、このシリーズに対する様々な解釈を可能にさせているのだ。
 このような手法は『変身』や『審判』といったカフカの一連の作品に描かれた不条理劇のそれに近い。それらの作品ではそこで起こっている事態や現象に対する答えや解釈というものは存在しない。そこで描写されるのは非日常的・非現実的な状況や環境に放り込まれた登場人物の姿だけで、意味や解釈はあくまで読み手にゆだねられる。カフカ本人がそれをどこまで自覚していたかどうかはともかく、直接語らない答えないことによって読み手に「何か」をより自由により深く考えさせる、それがカフカの不条理劇の方法論である。
 明確な答えや解釈は、かえって映画を観る者の想像力を狭めてしまうこともある。
 ロメロの名作を改悪した『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド最終版』(99)なる代物は、ゾンビ禍と宗教とを安易に(本当に安易に)結びつけたシーンをラスト近くにわざわざ付け加えているが、そのわずかなシーンが観るものの自由な解釈を妨げ、映画を味気ないものにしてしまっているのがいい例であろう。
 いらぬ付け足しをして、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を秀でた作品にしている重要な要素のほとんどを駄目にしてしまっているこの『最終版』を手がけたのは、オリジナル版の脚本を書いたジョン・ルッソである(『最終版』のほうを先に見てしまった人は気の毒でしょうがない)。ルッソはロメロとともにモダン・ゾンビを確立した立役者であるが、彼がその後に手がけたいくつかのゾンビ映画は深く掘り下げることができるゾンビというキャラクターの表面だけしか捉えることができていない(彼が原案を手掛けた『バタリアン』の成功は監督のダン・オバノンの手腕によるところが大きい)。
 ゾンビというキャラクターだけを拝借してロメロ以上にゲーム感覚的なおもしろさを追求したゾンビ映画も登場したし、ロメロ以上に過激な残酷描写を画面の中で繰り広げた映画も登場した。
 しかしロメロのゾンビ映画のように観終わった後に「何か」を感じさせるような、一種の哲学的な深さを持ちあわせた映画を監督できたものはいない。
 生ける死者“ゾンビ”の本質を捉えそれを操り描くことにかけて、ロメロという監督は別格の存在であり、モダン・ゾンビ映画の始祖であるとともにその究極の存在であるのだ。



死霊のえじき


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