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ジョージ・A・ロメロ/ゾンビの世界

 

ゾンビ
ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド

資料集


ジョージ・A・ロメロ/ゾンビの世界
序章

 ヴードゥ・ゾンビからモダン・ゾンビの世界へ


 死者が蘇えって生者を襲い、襲われた者もその傷が原因で死ぬと、生者の肉を求める生ける死者“ゾンビ”となる。
 もともと人であったゾンビは日常空間のいたるところに存在し、人間はゾンビの群れから逃れるためにサバイバルを行う。一見するとゾンビの動きはのろく、簡単に出し抜けそうだ。だがやつらは頭部を破壊しない限りは“不死身”であり、油断をしていると取り囲まれ噛まれ、自らもゾンビとなってしまう。次第に死者に圧倒されていく人間たちは、狭く閉ざされた空間へと追い詰められ、襲いくるゾンビと最後の熾烈な攻防を繰り広げることとなる。
 この一連のシチュエーションが映画にスリルやサスペンスを生じさせるとともに、画面を過激な残酷描写と暴力描写でいっぱいにし、さらにはゾンビと人間との鬼ごっこや陣取り合戦の様相を呈したゲーム感覚的なおもしろさを生み出していく。
 今日、ゾンビといって我々の頭に思い浮かぶキャラクターは、ジョージ・A・ロメロの一連のゾンビ映画によって確立された。
 ロメロのゾンビ映画、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(68)、『ゾンビ』(78)、『死霊のえじき』(85)と続く「リビング・デッド」三部作の成功は(「リビング・デッド」シリーズ第4弾『ランド・オブ・ザ・デッド』(2005)については別に述べる)、ヴードゥ教の呪術によって操られた奴隷としての存在であった従来のゾンビ像に対し、ロメロと『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の脚本家であるジョン・ルッソによって新たに定義されたこのゾンビのキャラクターによるところがまず大きい。

 ヴードゥ・ゾンビとは
-ヴードゥ教は、西インド諸島のハイチに奴隷として連れてこられた人々のルーツであるアフリカの土着信仰に一部キリスト教が結びついて発展したものであり、ゾンビはヴードゥ教の神官によって死から甦らせられた者の呼称である。死者の復活にはゾンビバウダーというものが使用され、その主な成分は、フグの毒であるテトロドトキシンであり、それによって仮死状態にされた人間が蘇生させられてから労働者として意のままにされるのがゾンビ化現象の実像であるとも言われる。最初のヴードゥ・ゾンビ映画は『魔人ドラキュラ』(31)で有名なベラ・ルゴシ主演で製作された『恐怖城』(32)である。-

 ロメロのゾンビ映画によって確立された新たなゾンビ像はヴードゥ・ゾンビと区別されてモダン・ゾンビと呼ばれるようになり、それによってもたらされるシチュエーションと過激な描写とゲーム感覚的なおもしろさは、ロメロ以後のゾンビ映画や世界中で大ヒットしたテレビゲームの「バイオハザード」シリーズなどに受け継がれていく。
 さらにはロメロのゾンビ映画の甚大な影響力は、映画やゲームの世界に留まらず、ゾンビ映画の枠を超え、あまたのクリエイターを刺激しつつ、今日のサブカルチャー全般に広がっているといっても過言ではない。
 『ブルース・ブラザーズ』(80)などで有名な映画監督のジョン・ランディスは『アメリカン・ナイトメア』(2000)というドキュメンタリー映画の中で『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』をリスペクトする発言をしているが、『ゾンビ』が世界中でヒットした数年後に彼が監督したミュージックビデオの『スリラー』では、マイケル・ジャクソンが喜々としてゾンビを演じていた。マイケル・ジャクソンというキング・オブ・ポップの代表作も、ロメロのゾンビ映画がなければ存在しなかった、とまでいったらこれは言い過ぎになるだろうか(アルバム『スリラー(Thriller)』は、1982年12月1日に発売され、全世界でじつに1億枚以上の売り上げを記録した。いまやマイケル自身が白塗りのゾンビのような不気味な容姿になっているのはご一興だが)。

スリラー

 映画監督としてのロメロの力量は高く、その演出は手堅い。「リビング・デッド」三部作においてロメロはゾンビと人間との攻防のみならず、ホラー映画や残酷さを売り物にしたスプラッター映画などではとかくおざなりにされがちな人物造形や人間ドラマも的確かつツボをおさえた演出力で表現してみせる。
 「死者が蘇えり人肉を求めて生者を襲う」などというのは全くの絵空事であるが、「リビング・デッド」三部作においてなぜ死者が蘇えるのかという明確な理由は開示されず、突如として死者が蘇えり生者を襲い始めたという状況だけが提示される。それを、ドキュメンタリー的手法などを駆使し表現することにより、ロメロは映画に「現実感」をもたらすことに成功し、観客をぐいぐいと日常の「こちら側の世界」から非日常の「あちら側の世界」に引き込んでいく。嘘は嘘でも、その嘘のつき方が実にうまいというわけだ。
 「リビング・デッド」三部作は難しいことを考えず、まずはホラーという娯楽映画として、ロメロによって生み出されたモダン・ゾンビという魅力的なキャラクターとそれによってもたらされるシチュエーション、その中で繰り広げられるゾンビと人間との壮絶な死闘、それらが的確でツボをおさえたロメロの手堅い演出によって語られる様を楽しむ映画である。そしてもちろんそれにともなう過激な残酷描写や暴力描写が映画の一番の見せ場であることはいうまでもない。
 そもそもシリーズ第一弾である『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』は、ドライブイン・シアターなどで若者が楽しむための低俗なB級映画として人気を博した作品であった。
 ただ、ホラーであれなんであれ優れた映画というものは直接メッセージを発していないようであっても、言葉ではなく映像によって「何か」を語るという、いわば「映画内センテンス」や「映画内ロジック」というものによって様々なメッセージというものが読みとれるものであり、ロメロの「リビング・デッド」三部作も深く読みとれば読みとるほど、そういったホラー映画という枠組みの背後に隠れた深いメッセージ性というものが浮かびあがってくる。
 ロメロの盟友である作家スティーブン・キングは著書『死の舞踏』(安野玲訳/福武文庫)の中で語っている。
 「ホラー映画はもともと“芸術”だの何だのをまったく念頭に置かずに作られている。その目指すところは“利益”のみ。芸術性があるとすれば、それは意識的につけくわえられるのではなく、放射性廃棄物が放射能を発するがごとく自然ににじみ出てくるものなのだ。」
 これからロメロの「リビング・デッド」シリーズについて語る上での私のいささか真面目な分析や解釈は、そのようなごく僅かな「放射性廃棄物が放射能を発するがごとく自然ににじみ出てくるもの」を読み取ろうとする試みとなるだろう。そしてそれは製作過程やロメロのインタビューなど様々な資料に基づいたものではあるが、あくまで一連の作品を読み解いた上での私なりの考えであることをお断りしておこう。

死の舞踏―ホラー・キングの恐怖読本

 不条理なる世界

 理由も判然としないまま「ある日突然死者が蘇えり人肉を求めて生者を襲い始める」というのは、きわめて不条理なシチュエーションである。「ある朝目覚めると虫になっていた」、「突然何の罪もないのに逮捕される」といった『変身』や『審判』などカフカの一連の作品で描かれた不条理劇に近い世界だ。
 カフカの『変身』や『審判』といった作品からは、人間が非日常的・非現実的な状況や環境に突然放り出され、その歪み狂った世界の中で、人の実存の問題を浮き彫りにしたり、現実社会の風刺画を描いて見せたりするといった特質が浮かび上がってくる。
 ロメロのゾンビ映画の舞台は、蘇った死者が生者を襲い、襲われた側もゾンビとなり、やがて人類は滅びていくのであろう歪み狂った絶望的世界だ。そのなかで人々は昨日まで自分の家族や友人であった「生ける死者」たちとの攻防を繰り広げなければならない。そこはこの世に現れた地獄か、地獄の入り口の煉獄である。かつては自分の隣人や友人や家族であった「生ける死者」と死闘を繰り広げながら人類は滅亡に向かっていく。これほど不条理かつ人間社会にとって激烈な風刺画はないだろう。
 ロメロの「リビング・デッド」三部作において、なぜ死者が突然蘇りだしたのかという明確な理由は開示されない。そして、カフカの不条理劇がそうであるように結局物語は原因の解明らしい解明も、事態の解決らしい解決もないままに終了してしまう。だからこそ不条理さはよりいっそう際立ち、見る側に作品に対する無限の解釈を可能にもする。
 娯楽映画としてのロメロのゾンビ映画の背後にあるこのような不条理性は、作品を読み解く上での重要なキーワードであると考えるが、私はロメロの「リビング・デッド」三部作は、不条理劇を描いたカフカの一連の文学にも比肩する高い芸術性と深いメッセージ性を有していると真剣に考えている。
 監督作品のほとんどの脚本を手がけ、インディペンデント系の監督として製作過程の大部分をコントロールしてきたロメロは、ゾンビ映画以外の作品を見ても分かるように、ホラー映画の枠組みの中に必ず何らかのメッセージをこめる作家性の強い映画監督である(ロメロの「作家性」については相棒であったプロデューサーのリチャード・P・ルビンスタインも、アメリカにフランスの雑誌「カイエ・デュ・シネマ」発祥の「作家主義」を紹介したアンドリュー・サリスに触れながら言及している)。
 はたして「リビング・デッド」三部作の第一弾であり初の劇場長編映画であった『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』を監督した時点で、ロメロはどれだけ自らが構築した世界から生じるメッセージ性というものを自覚していたのであろうか。
 これについては後でまた触れるが、おそらく処女作『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』の時点から今日に続く作家としての素養があって、本人がどこまで意識的だったかはともかく作品にもそれが投影され、ゾンビ映画を撮り続けるごとに、自らが構築した世界から生じるメッセージ性というものに自覚的になっていき、シリーズを重ねるごとにそういった要素をより明確に作品に盛り込むようになっていったのが真相であろう。
 ロメロのゾンビ映画が一部の人々の心を捉えて放さないのは、ホラー映画としての第一級のおもしろさが確立されているのはもちろんのこと、そこにロメロによって創造された不条理極まりない世界から生じてくるメッセージ性が隠し味のようにブレンドされ、このシリーズでしか味わえない独特の魅力を発揮しているところにある。
 『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』に続く「リビング・デッド」三部作の第二弾で、シリーズ中でもとくに人気の高い作品である『ゾンビ』は、ロメロが定義したゾンビというキャラクターが生み出す魅力的なシチュエーションとそれにともなう暴力性や残酷性、ゲーム感覚的なおもしろさなどがもっとも効果的に発揮されたホラー映画史上屈指の娯楽映画であるとともに、社会批評的メッセージが盛り込まれた人間社会に対する痛烈な風刺画となっている。
 ゾンビ映画の代名詞というほど有名なこの映画は、ファンの数も圧倒的に多く、あまたのクリエイターに影響を与え、無数のエピゴーネンをいまもなおサブカルチャーの世界に生み続けている。
 過去現在と、絵画であれ、音楽であれ、文学であれ、人の人生を狂わすほどの魅惑的な作品というものは存在してきた。『ゾンビ』もそういった作品の一つであるといったら、多くの人は笑うだろうか。だが実際、見る人によっては単なるホラー映画、おぞましいスプラッター映画以上でも以下でもないこの作品に魅了され、大きく人生の軌道を曲げられてしまった人間は結構存在しているのだ。
 私もその一人であるのだけれど、ロメロのゾンビ映画について語るに際して、まずはこの『DAWN OF THE DEAD(死者の夜明け)』こと『ゾンビ』から始めたいと思う。


ゾンビ


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