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ジェームス・ディーン、ジョン・レノン、アイルトン・セナ、アンディ・フグ…。
あるジャンルにおいて、もう二度と現れないだろうというぐらいのカリスマはなぜかみな夭折してしまっている。
運命の女神のいたずらなのか。早死にすることによって永遠に年をとらず、才能の衰えをさらすこともなく、いつも人々にあの人が生きていればと残念がられ、おしまれ続けている。
死して彼らは、まさに伝説となった。
早世のカリスマといってはずすことができないのは、やはりブルース・リーだ。
まあブルース・リーの魅力については説明はいらないだろう。彼の映画を見れば単純にそのかっこよさにノックアウトされる。
「かっこいい」、これこそがブルース・リーを語る上でのキーワードだ。
香港で子役の経験もあったブルース・リーはアメリカに渡る。自ら考案した武術ジークンドーの指導を通してハリウッドスターの友人もできた彼は自らも俳優を志すが、アジア人にはろくな役が回ってこない。自分に決まりかけたTVドラマ(『燃えよカンフー』)の主役の座も白人に奪われる。失意の彼はいったん香港に戻り、香港映画に出演する。これがアジア圏で大ヒット。
このころのブルース・リーのワンマンぶり俺様ぶりはつとに知られているところだが、とにかく彼は自分をいかに売り出すか、かっこよく見せるかに執着した。
自分を受け入れなかったハリウッドに、アメリカに、白人社会に自分を認知させるためには、とにかく自分をかっこよく描き、映画を成功させなければならなかった。
その企みは功を奏し、ブルース・リーの香港での成功に目をつけたハリウッドのプロデューサーが、彼にハリウッド映画への出演オファーをする。それが映画、『燃えよドラゴン』だった。
監督こそアメリカ人だったが、映画の主軸であるアクションシーンを一手に引き受け、数多くのアイディアも提供する。そしてカメラの前に鍛えに鍛えぬかれた肉体をさらし、実際に武道の達人であった彼は、説得力ある立ち回りを演じて見せる。フィルムに写されたそんな彼の姿には本当に鬼気迫るものがある。 本人の努力もあって、映画は大ヒットし、ブルース・リーはハリウッドでもっとも成功した東洋人となる。
しかし『燃えよドラゴン』がアメリカで公開された日、彼はもうこの世の人ではなくなっていた…。
DVDで見直してみて感じたことは、ブルース・リーがかっこいいのは相変わらずなのだが、昔はそれほど感じなかったことだが、とにかく彼が美しくみえることだった。
この映画にはさまざまな人種が出てくるのだが、とにかく彼はその中でずばぬけて美しい。とぎすまされた美しさというか、劇中に登場する東洋人も含めて映画の中で美しいのは彼だけなのだが、これはまぎれもなく東洋人だけが発せられる美しさで、白人には絶対に出せない美しさだと思う。自分も同じ東洋人であることをちょっと誇らしく感じるほどだ。
ブルース・リーはプライド高きナルシストなのだろう。自分をいかにかっこよく見せるか、そのためには肉体だけではなく精神も鍛えなければならない。何事においても努力しなければならない。それが、彼の東洋的な哲学を含んだ武道ジークンドーの大成に結びつき、スクリーンの上では鍛えられ研ぎ澄まされた人間だけが持つオーラを発して観客を魅了する。それが最終的には人間的美しさとして現れてくる。
我々が知っているブルース・リーはそんな若く絶頂にあるころの姿だけ。彼は永遠に年をとらず、才能の衰えをさらすこともなく、世界中でいまも多くのファンに愛され、彼が生きていたならばとおしまれている。
かくしてブルース・リーは伝説となった。
彼がもし生きていたならば、と考えるのはもしかしたら野暮なことなのかもしれない。彼は死ぬべくして死んだ、伝説となるために。
かりに運命の女神がいるとするならば、カリスマにはカリスマだけの特別な死をあたえるのかもしれない。それが「早すぎる死」の本質なのではないか。人がいつ死ぬかという運命も人には平等に与えられているわけではないのかもしれない。もちろん本人はもっと生きたかっただろうが…。
最後に、冒頭で挙げたカリスマたちに共通する特徴について。みんななにか少し悲しげで、いつもどこか遠くを見ているような目をしている。
あとづけでそう思うだけかもしれないが…。
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