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映画コラム

 

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スター・ウォーズ/メモリアル
スター・ウォーズ新三部作研究
「シスの復讐」ノベライズを読んで

北野武

デヴィッド・リンチ
マルホランド・ドライブ

 小説が言葉によって物語を表現するなら、映画はカメラを通した映像によって物語を表現する。それにしても普段私たちが当たり前のように受け入れている映画におけるカメラの視点とは何だろう?
 カメラはどこにでも入り込み、一人称の視点にもなれば三人称の視点にもなり、海中深く潜り込めば空を飛び宇宙にまで飛び出していく。過去にさかのぼることも未来を映し出すこともある。ほとんど神の視座といっていいぐらい変幻自在で時空すらこえる映画におけるカメラの視点というものは、実は人が眠っている間に夢を見るときの感覚にもっとも近いのではなかろうか。
 夢をみるという行為は、脳内に映し出された映像を、眠っている間、仮想現実として体験するというものであるが、映画を見るという行為もまた、映像によって作り出された仮想現実を体感し楽しむというものである。
 しかし本来夢というものには脈略がなく、映画のようなストーリーもないから、映画というよりも人間が創造した映像表現というものが、人が夢を見る感覚にもっとも近い表現だというのが厳密かもしれない。
 ただ被写体を写しているだけではなんの脈絡がない映像というものに、小説的演劇的なストーリーや、時間軸というものを持ち込み、モンタージュ理論などというものも駆使することによって、はじめて映像は物語を語る映画というものになる。
 しかしそうやって映像から映画へと映像作家たちが表現を発展させていくなかで、あえてストーリーも時間軸もバラバラで脈絡のない象徴的な映像をつなぎ合わせて映画を作る試みをしたものたちもいた。いわば映像というものが夢を見るという感覚に近いということを自覚したうえで、それをあえて映画という形で表現してやろうとするものたちが映画創世記のころからいた。
 『ガリガリ博士』のロベルト・ウィーネや『アンダルシアの犬』のルイス・ブニュエルといった作家たちである。
 人が夢を見るということを芸術として表現しようとする試みがシュールレアリスムというものであり、『アンダルシアの犬』を撮ったブニュエルはそのシュールレアリスムを映像という媒体を使って表現することにとくに自覚的な作家だった。
 ブニュエルらによって人が夢を見るときに近い感覚が映画で表現されたとき、人は夢をみたときに感じる地に足がついていないような、精神のなんともいえない浮揚感を覚え、それが悪夢に近い映像であったりすると著しい不安感に襲われる。
 本来夢を見るという行為は、人間の無意識下にある抑圧されたトラウマや性的リビドー、人間が持っている潜在的な恐怖心や象徴的符号というものが、意識下と無意識下の狭間の領域で、夢という映像となって現れてくるものである。なので、夢はときに非常に性的であったり暴力的であったり、人の持つ潜在的恐怖に訴えたりするものであることが多い。ブニュエルも『アンダルシアの犬』において、そのあたりの感覚を見事に表現している。
 映画によって人が夢を見るときの感覚がたくみに表現されたとき、人は無意識下の感覚にまで触れられたような感覚に陥り不安を感じるのである。
 映画が本来、人が夢見る感覚に近い媒体であるといっても、人が夢を見る行為に近い感覚そのものを映像で表現することは実はきわめて難しい。だからこそ、それに成功しているブニュエルのような作家は尊敬に値する。
 現代の映画監督で、シュールレアリスム系の映像作家の後継者といえば、デヴィッド・リンチであろう。リンチの代表作『ブルー・ベルベット』のDVDの映像特典にもそのあたりのことが触れられている。リンチの場合はそれはアメリカン・シュールレアリスムであり、それが彼の独自の映像空間と作家性を形作っている。
 処女作の『イレイザーヘッド』において、リンチは夢といっても完全に悪夢の感覚を映像として表現することに成功している。ストーリーらしいストーリーはなく、とにかく人を不安にする映像と音で構成されたこの映画は、本人はどこまで自覚的だったかは分からないが、映画監督としてのリンチの作家性の原点が全て凝縮されつめこまれている。
 『イレイザーヘッド』以後のリンチの作品は、『イレイザーヘッド』ほど露骨ではないものの、そのほとんどがシュールで悪夢的な感覚を内包している。その悪夢的感覚をリンチは映像に表現すること長けているからこそ、突然ストーリーがあらぬ方向に進んでも、登場人物が突飛で怪奇な振る舞いをしたりしても成り立つのである。
 夢というものが人間の無意識下にある抑圧されたトラウマや性的リビドー、人間が持っている潜在的な恐怖心や象徴的符号が脳内に映像として現れたものであり、シュールレアリスムが、その夢を芸術として表現する試みであるとして、リンチの映画もまさにその徹をふんだ見事なシュールレアリスティックな映像表現になっている。
 『ツイン・ピークス』以後、一時低迷していたリンチは、ここ最近より自らの作家性に忠実な映画作りを試みている。その一つが『ロスト・ハイウェイ』であり、あいだに否シュールレアリスティックな映画である『ストレイト・ストーリー』をはさんで、もう一つが傑作『マルホランド・ドライブ』である。両作品とも『イレイザーヘッド』以後の作品が、シュールでありながら曲がりなりにもストーリーと時間軸の枠組みが残されていたのに比べて、ストーリーはほとんど説明不可能の領域に入り、時間軸も極端にバラバラなものとなってしまっている。そして暴力的で性的で、全編が幻想的、悪夢的な感覚に包まれた、真にシュールレアリスティックな作品となっている。
 志向するところは似たような両作品だが、どちらが人の潜在的な不安や恐怖により強く訴えかけてくる作品かといえば、後者の『マルホランド・ドライブ』であり『ロスト・ハイウェイ』はその点ではかなわない。
 シュールさなら『ロストハイウェイ』のほうが上だという人もいるかもしれないが、先に述べたように、人が夢見る行為に映像表現は似ていながら、人が夢見る行為そのものを映像表現として表すのはきわめて難しい。
 『ロスト・ハイウェイ』はその試みに「映画」として失敗し、『マルホランド・ドライブ』はそれに「映画」として成功している。『イレイザーヘッド』以来のシュールレアリスム作家としてのデヴィッド・リンチは、『マルホランド・ドライブ』において一つの頂点を向かえている。
 それにしても『マルホランド・ドライブ』に至るリンチの作品群の多くは傑作である。彼は映画監督しても後世に名前を残すであろうし、ダリやブニュエルといった偉大なシュールレアリスムの作家たちに並ぶ天才としても後世に名を残すことだろう。




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